ひな祭りの由来や意味についてまとめておきます。
目次
ひな祭りの由来と意味
ひな祭りは、以下の2つの行事が結びついて始まったとされています。
- 流し雛
- 雛遊び
そこで、これらの行事について解説していきます。
流し雛
日本のひな祭りは、3世紀前後の古代中国の風習に由来すると言われています。中国では、季節の変わり目には邪気が発生しやすいと考えられているため、3月3日の上巳の節句には水辺に出て、禊やお祓いを行っていたのです。
その中には、盃を水に流して、それが流れている間に詩歌を読む「曲水の宴」と呼ばれる風習があり、これが7~9世紀に遣唐使によって日本にも伝えられました。そして、日本では、古来よりお祓いの道具として人形(ひとがた)が使われており、人の形をしたものの持つ霊力で邪気を払いのけようとする風習がありました。
そのため、中国から伝来した曲水の宴は、日本の人形の風習と融合することとなります。平安時代に入ると、上巳の節句には、川のほとりに男女が集まり、草木や和紙などで作った人形を体に触れさせ、自分の体にある汚れを人形に移してから、川や海へと流す儀式が行われるようになったのです。
つまり、自分の汚れを人形に託して水に流すことで厄を払っていました。これが、流し雛と呼ばれる行事であり、自分の身を清める儀式として、現在でも日本の各地で行われています。
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雛遊び
平安時代に流し雛が行われるようになると、貴族階級の女の子の間では、紙の人形で遊ぶままごと(雛遊び)が行われるようになります。これは、流し雛の人形が子供に与えられたことで、小さな子供たちの遊び道具として使われるようになったためです。
これが現在のひな人形の原型とされています。最初は、紙を人の形に切り抜いた紙人形だったのですが、次第に布の着物を着せた人形が生まれ、女の子の遊び道具として浸透していきました。
雛壇の形成
室町時代に入ると、人形作りの技術が発展し、華やかで立派な人形が作られるようになると、人形は流すものではなく、飾るものへと変化したのです。その後、戦国の世が終わり江戸時代に入ると、徳川幕府によって、上巳の節句(3月3日)」が「五節句」のひとつに定められ、端午の節句(5月5日)などと並ぶ重要な年中行事として認識されるようになり、3月3日が女の子の節句として定着するようになります。
もともと3月3日は流し雛として厄払いのイメージが強かったのですが、五節句に定められたことで、上巳の節句には、女の子たちは華やかなひな人形を使って遊ぶようになったのです。
また、ひな人形作りの技術が発展し、上流階級では豪華なひな人形が嫁入り道具として用いられるようになりました。また、江戸時代には、ひな人形はその家の財力を表すと認識されるようになったため、男女一対の人形だけでなく、二段、三段、七段と雛壇を形成するようになったのです。
主役は赤ちゃんへ
上巳の節句(3月3日)が女の子の節句として定着し、ひな人形を使ったお祭りとして知られるようになると、この行事に赤ちゃんが加わるようになります。女の子が生まれると、雛人形を用意して、それを飾ることで、赤ちゃんに災いが降りかからず、美しく成長して幸せになるようにとの願いを込めてお祝いする風習が広まっていったのです。
これが現在の初節句にあたります。このようにして、ひな祭りは厄除けの儀式であったものが、女の子の成長と幸せを願う行事へと変化し、庶民の間に定着していきました。
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まとめ
ひな祭りは、以下の2つの行事が結びついて始まった行事です。
- 流し雛
- 雛遊び
昔の日本では、流し雛と呼ばれる紙の人形を使った身を清める儀式が行われており、3月3日は厄除けイメージが強かったのです。しかし、平安時代に入ると、この紙人形が小さな女の子たちの遊び道具として使われるようになり、雛遊びとして定着していきます。
その後、人形作りの技術が進歩し、より立体的で華やかな人形が登場すると、人形は流すものから飾るものへと変化していきます。そして、江戸時代に入り、3月3日が女の子の節句として定着したことで、上巳の節句に女の子たちはひな人形で遊ぶようになりました。
また、江戸時代には、ひな人形がその家の財力を表すとされ、上流階級では男女一対の人形だけでなく、二段、三段、七段と雛壇を形成するようになったのです。そのため、3月3日に華やかなひな人形が雛壇に飾られるようになりました。
上巳の節句(3月3日)が女の子の節句として定着すると、この行事に赤ちゃんが加わるようになりま す。赤ちゃんの健やかな成長を願って、3月3日に雛人形を飾る風習が広まっていったのです。
このようにして、ひな祭りは、女の子の成長と幸せを願う行事として定着していきました。
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